◆山本博文『あなたの知らない群馬県の歴史』を読み解く
※要旨
・群馬県は、ほぼ上野国に一致する。
海に接しない内陸県で、前橋・高崎市の2中核市、伊勢崎・太田の2特例市がある。
・群馬県域にあたる上毛野はさらに、豊穣をもたらした南東部の河川と北西部の高山とが、
軍事的観点から考えるとじつに理想的な天然の要塞をなし、
五世紀には大型の古墳が多数築造されるようになる。
そこにはヤマトとは異なる、独立した強い政権の存在が濃厚に匂う。
・上杉謙信が上野を支配するために、厩橋城(前橋市)はじつに重要な拠点だった。
まず、厩橋城は河川や陸上における交通の要衝地である。
軍勢の移動はもちろんのこと、経済の根幹を成す物流の動きを円滑にするには、必要な条件であった。
・上野国には重要な拠点となる城郭が数多く存在したが、
厩橋城はその中間地点に位置していた。
西の箕輪城、北の沼田城、東の太田金山城(太田市)などとの連携は、
欠かすことができなかった。
上野支配を行うための重要な位置に所在したのである。
・見事に関東出兵を果たした謙信は、
上杉憲政とともに赤城神社で「越山」(越後山脈を越えて関東に入ったこと)成功を祈願したという。
田中角栄の後援会「越山会」とは、謙信の「越山」にちなんで名付けられたものである。
・後北条氏が領国内に支城ネットワークを築いたことは、よく知られている。
一般的に戦国大名の城は、軍事的拠点と機能を有している。
同時に、城は領国支配のための政治的・経済的中心でなくてはならなかった。
そのような事情から、戦国大名が居城する本城を中心として、
領国内に支城のネットワークを形成することによって、円滑に領国を支配したのである。
・上野国において重要視されたのは、箕輪城(高崎市)と館林城(館林市)だった。
徳川家康が関東に転封された直後、箕輪城には井伊直政、館林城には榊原康政が配置された。
・高崎城のすぐそばには、利根川の舟運につながる烏川が流れ、
中山道の隣の宿駅には日光例弊使街道と交わる倉賀野宿もあった。
このような交通の要衝に城下町が形成されたことこそ、高崎が繁栄した最大の要因といえる。
※コメント
群馬というのは面白い地域である。
歴史的にもさまざまな戦国大名が交錯してロマンをそそる。
ぜひ一度、足を踏み入れてみたい。
★山本博文『あなたの知らない群馬県の歴史』の詳細,amazon購入はこちら↓
http://amzn.to/1b1TNw2
◆まぐまぐメルマガ『国際インテリジェンス機密ファイル』ご紹介。
ご登録はこちらです↓
http://www.mag2.com/m/0000258752.html
世界のインテリジェンスに関する公開・非公開情報をお伝えします。これを読めば貴方も一流のスパイになれるかもしれません。