◆湯浅博『辰巳栄一:吉田茂の軍事顧問、歴史に消えた参謀』を読み解く


※要旨


・吉田茂が重用した白洲次郎が「経済の密使」なら、
辰巳栄一は首相の「影の参謀」であった。


・辰巳の30年にわたる軍歴のうち、10年は3回にわたる英国勤務であった。
陸軍きっての国際通であり、国力の差から英米を敵とすることに一貫して反対した。


・辰巳の人生観や国家観を知る上で「尚武の気風」が残る佐賀時代は、
やはり欠かすことのできない精神の軌跡である。
彼は1895年、佐賀県小城町に生まれた。


・本間雅晴は辰巳にとり、武藤信義と並んで陸軍内でもっとも尊敬する軍人であった。
本間はかつて英国陸軍にも配属勤務したことのある俊英である。
英国の元駐日武官、フランシス・ピゴットは、
「かれの強烈な性格、卓抜な才能、曇りのない誠実さ、それに完璧な英語の知識の故に、
イギリス軍部はかれに特別の関心を抱いていた」
と賛辞を贈っている。


・辰巳は同じ英米派として、本間のあとを追うように駐英武官や欧米課長をこなすようになる。
しかし、本間は敗戦の昭和21年、「バターン死の行進」の責任を負わされ、
戦犯としてフィリピンに死す悲劇の将軍でもあった。


・1936年、41歳になった辰巳栄一中佐はロンドンの駐在武官に抜擢された。
辰巳は密命を帯びていた。
日独防共協定に強硬に反対していた駐英日本大使・吉田茂を説得することだった。
辰巳は頭が痛かった。
彼自身も協定に必ずしも賛成ではなかったからだ。


・吉田茂の外交観は、もちろん単純な反戦思考ではない。
あくまでも、実利的な現実主義に基づいている。
鉄血宰相ビスマルクの言葉のように「戦争は誰と組むかで勝敗が決まる」し、
孫子の兵法なみに「戦わずして勝つ」ほうがなおよいはずだ。


・英国の通信傍受は強化され、特にチャーチルは暗号解読情報を「私の金の卵」というほど重要視した。
ナチスのエニグマ暗号解読で有名なブレッチェリーパークの暗号解読専門組織は、
随時、日本の外交暗号も傍受していたのである。


・吉田や寺崎らによる対米戦争回避の努力をつぶしたのは誰だったのか。
学習院大学教授の井上寿一氏によれば、それは決して東条英機内閣の意思だけではなかった。
「東条の背後には、名もない、しかし圧倒的多数の国民がいた」との指摘は否定しがたい。


・在ロンドンの陸軍駐在武官、辰巳栄一少将は戦争の帰趨を
「合理的な組織の上に、洞察力と決断力のある政治指導者を得ているかが明暗をわける」と考えていた。


・英米との戦争が始まり、大使館に軟禁された辰巳は、現地紙タイムズなどを読み下し、
必死でBBC放送を聞き分けていた。
この時代に、情報将官のたぐいまれなる英語力と、そのグローバルな分析力にはただ驚くばかりである。
また、辰巳はチャーチルの行動力のすごさを
「実に70歳に近い老人とは思われぬ不死身の活動振りと言ってよい」と高く評価している。


・たとえシンガポール陥落や戦艦2隻撃沈の「極東戦」で敗北しても、
チャーチルはその事実を率直に認めて決して隠そうとはしなかった。
辰巳はこれを
「危機に臨みたる英国唯一の指導者の地位を動揺せしめざらんと欲する一般的希望の存在に外ならず」
と記した。


・田中義一元首相の長男、龍夫は昭和22年、36歳で山口県の民選知事になると、
庁内に「朝鮮情報室」をつくった。
山口県には、朝鮮語を話す朝鮮総督府時代の官吏や朝鮮の内情に通じた県警幹部の担当者が少なからずいた。


・田中龍夫は単なる半島の短波傍受を指示するだけでなく、
半島内に「情報員までも派遣していた」という周到さである。
国内の地方自治体が、半島に限っては政府をしのぐ情報力を持っていた。
その朝鮮情報室が昭和25年に入って、半島に異変があることを察知した。


・田中は6月に上京して、大磯の別邸にいた首相の吉田茂に、
「北朝鮮が侵攻する可能性が高いから、何とかしてほしい」と訴えた。
事変が起きれば、無数の難民が山口県に押し寄せ、亡命政権ができる可能性すらあった。
しかし、吉田はわずか3日前に38度線を視察したジョン・ダレス特使が日本に立ち寄り、
「米軍の士気は旺盛で装備も充実しており、決して心配ない」と言ったとニベもなかった。
一地方自治体に、それほどの情報収集能力があろうとは考えてなかったからである。

数日後、北朝鮮軍が怒涛の南進を開始した。
3年にも及ぶ朝鮮戦争の幕開けであった。


・朝鮮戦争が起こり、旧日本軍人たちは米軍からアドバイスを求められた。
辰巳らのアドバイスを受けて、ウィロビーは戦争勃発の翌26日には、丸の内の日本郵船ビルに、
旧陸海軍の情報将校を中心に陸軍陸地測量部、海軍水路部の専門家を招集した。


・いずれにしろ、朝鮮戦争は米国の極東戦略にとって日本が重要な戦略的位置にあることを示した。
日本を前線基地とする米軍は、毛布、砲弾、鋼材などあらゆる軍需物資をすばやく調達しなければならなかった。


・首相の吉田茂と軍事顧問の辰巳栄一は、サンフランシスコ講和条約発効後の国家像に思いをめぐらせていた。
戦後の英国は軍事力で米軍の後塵を拝しながらも、なお、その米国に影響力を持ち続けていた。
なぜ、それが可能なのか。
吉田は外交上の交渉力と強力な情報力にこそあると考えていた。
辰巳は軍事力を補完するものが、世界に張り巡らされた英国の情報網と汎用性の高い英語という言語力とみていた。


※コメント
辰巳さんのような大物情報官が育成されるためには時間がかかる。
膨大な知識と経験がモノをいう。
情報マンが育てるには、長い目でみていきたい。


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