◆岡部伸『消えたヤルタ密約緊急電、情報士官・小野寺信の孤独な戦い』を読み解く


※要旨



・1945年2月、ソ連クリミア半島のヤルタで、米英ソ巨頭会談が行われた。
ここで対日密約が結ばれ、ドイツ降伏後、90日以内にソ連が日本に対して、
日ソ中立条約を侵犯して参戦すること、参戦の代償として日本が南樺太をソ連に返還し、
千島列島を引き渡すことが定められた。



・このヤルタで密約が結ばれたという情報を、会談直後に秘かに入手して、北欧の中立国スウェーデンから、
機密電報で日本の参謀本部に打電した人物がいたことをご存知だろうか。

第二次大戦をとおして、帝国陸軍のストックホルム駐在武官だった小野寺信少将である。
小野寺は、大戦前から知己を得たポーランドやバルト三国の情報士官から、「諜報の神様」と慕われた。

また連合国の機密情報を次々と掴み、連合国側から「枢軸国側諜報網の機関長」
「欧州における日本の情報収集の中心」と恐れられた伝説の「インテリジェンス・ジェネラル」だった。


・英国国立公文書館には、チャーチルのメモのみならず、15世紀以前にさかのぼるイギリス政府の公文書が保管されている。
かつてイギリスはせきあの陸地の4分の1を支配し、七つの海を自由に航海する世界帝国だった。
その覇権の源泉となったのが卓越した情報収集と正確な分析力、つまりインテリジェンスだった。

全世界で入手された政治、経済、軍事など多種多様な情報が本国で入念に分析され、ファイルに蓄積され、戦争や外交交渉に活用されてきた。



・小野寺信は、岩手県の前沢に1897年に生まれた。
仙台陸軍幼年学校、中央幼年学校を経て、1917年に陸軍士官学校に進んだ。

卒業後、連隊勤務となり、その部隊がシベリア出兵の関係でロシア駐留となる。
そこで情報関係に入るきっかけとなるロシア語に出会う。

ロシア語の教師は、旅団司令部のタイピストの姉妹だった。
耳から口へのロシア語習得は効果があったようで、「一年間の勉強で新聞が読め、文章が書けるようになった」。
語学のセンスは天性のものだった。



・その後の陸軍大学校でも、ロシア語を磨き、対ロシアのインテリジェンス・オフィサーとして大成するきっかけになる。


・1930年に千葉の歩兵学校へ研究部主事兼教官として転任すると、そこに学問好きな上司がいた。
彼らの指示で小野寺はソ連軍の戦略・戦術・戦法・編制を研究し、毎月報告を雑誌の形でまとめた。
まるで学者の卵のような生活である。
ここが人生のターニングポイントになった。


・小野寺は、駐在武官としてどのように情報網を作り、インテリジェンスを得ていたのだろうか。
小野寺は、人種、国境を超えて、さまざまな国の人たちと協力して貴重な情報活動に成功することになる。
彼は、回想録で「情報活動で最も重要な要素の一つは、誠実な人間関係で結ばれた仲間と助力者を得ること。
その点で、まことに幸運だった」と振り返り、

「年齢、国境、人種を超えて信念で固く結ばれた人間関係は、この上もなく尊いものと思う」と記している。


・彼は、まず赴任した国の指導的なインテリジェンス・オフィサーと良好な信頼関係を築いた。
そして、彼らとどうすれば協力できるかを研究して、それが得られるベストの計画を練った。

最初は、金銭ずくではなく、協調や友情に基づいて彼らと親しくなった。
時間をかけて良好な関係を築いていったのである。
戦争を通じて最も良い情報源の数々は、長年にわたって親しくなった知人たちだった。

小野寺が入手した最良の情報のいくつかは、小国の参謀本部の情報士官との協力関係によるものだった。



・情報とは「長く時間をかけて、広い範囲の人たちとの間に『情(なさけ)』のつながりを作っておく。
これに報いるかたちで返ってくるもの」
(作家・上前淳一郎)


・情報とは人と人の心のつながりの産物である。


※コメント

小野寺氏が数々の第一級の情報を入手できたのは、彼の卓越したコミュニケーション能力と様々な貢献、そして日本の行動によりもたらした。
いろいろな要素が絡み合って、味方をしてくれた国と人物がいた。
海外で動くときも、自国のブランドと歴史を背負っていることを肝に銘じたい。



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