◆藤原正彦『古風堂々数学者』を読み解く


※要旨


・私は実は外国語が大好きだった。
中学一年で皆と同じく英語を始めたが、中学二年でドイツ語、三年でフランス語を始めた。
高校でもこの3ヶ国語の学習を続け、大学の教養学部では英独仏露を履修し、
卒業してからスペイン語、ポルトガル語を独習した。


・外国語を読めるようになること、その国の人と片言でも話せるようになることは、
途方もなくスリリングなことだった。
この愉しみが病みつきとなり、様々な言語に次々に取り組み精力的に勉強したから、
いくつかの言語をスラスラと読むことができるまでになった。


・この無邪気をいま、やや呆然とした気持ちで眺めている。
あの膨大な時間とエンルギーの半分でも、古今東西の名作名著の精読に向けなかったのが悔やまれる。
若い時分にもっとこれらに触れ感動すべきだった、と無念に思うのである。


・数年の海外生活を通して痛感したのは、真の国際人となるために、
東西の名作名著や日本の文化や伝統に精通していることが、
流暢な英語とは比べものにならないほど重要ということである。


・アメリカ留学から帰国後、論理的に考えて正しいと思ったことを即座に実行する、
というアメリカ方式が輝きの本質と分かっていたから、私もその方式を公私にわたって実行するようにした。
当然ながら職場では始終あつれきを起こした。
正々堂々と論戦し、そこで勝った者の意見が正しい、というのがアメリカ方式である。


・43歳のとき、イギリスのケンブリッジ大学で一年の研究生活を送った。
空港に降り立ち、タクシーに乗り運転手と会話をはじめ5分ほどたったとき、
「アメリカ人ですか?」と唐突に尋ねられた。
このとき私は、日系アメリカ人と間違えるほどの流暢なアメリカ英語、と理解し内心得意になった。


・イギリス人がアメリカを徹底的に見下している、と知るのに何ヶ月もかかった。
何でも新しいものを好むアメリカ人を、歴史のない国の人々と憐れみ、
自分たちは反対に何でも古いものを尊ぶ。


・ケンブリッジのカレッジのディナーでは、肉を切った後ナイフとフォークを持ち替えたら、
横の教授から「アメリカ式ですね」とやんわり皮肉られた。
そこでアメリカ映画やアメリカンポップスについて話したら座が白けてしまった。
英文科の教授がアメリカ文学をほとんど読んでいないのにも驚かされた。
英国滞在が私にもたらした影響のうち、最大のものは何と言ってもアメリカ崇拝の崩壊であった。


・イギリスのアメリカを見る目は、一言でいうと若造に対するそれである。


・七つの海を支配し大英帝国を経験したイギリス人は、
富、繁栄、成功、勝利、栄光、名声などのもたらすものを、既に見てしまった人々である。
だからそれらを求めるアメリカ人を、無知な若造と嘲るのである。
彼らは年輪を重ねた自分たちが、テニスチャンピオンになったり、
マラソンで新記録を出すことができないのを知っている。
薄っぺらな若者であるより、気品と知恵のある熟年でありたい。
すなわち俗悪な勝者より優雅な敗者を選ぶのである。


・アメリカ方式とは若者方式と言ってよい。
私が四十代半ばになって「若者はけしからん」と感じ始めたのは、
英国を経てアメリカに距離を置くようになった時期と一致している。


・若者の判断力が未熟なのは自明のことと言える。
だからこそかつての私のようにアメリカに染まったり、
「一人の生命は地球より重い」とか「親孝行は古い」などと言った妄言を信ずるのである。


・10人の生命を救うために自己の命を犠牲にすることは尊い行為であること。
名誉は生命と同様の重さをもつこと。
卑怯は死に値するほどのものであること。
親孝行は永遠の美徳であること。
年寄りはこのようなことを、自信をもって教えなくてはいけないと思う。


・合理性だけを重んずる社会がどんなものかは、現在のアメリカを見れば大概見当がつく。
伝統国イギリスと同様、わが国には幸い、古くからの良き「かたち」がある。
私の祖母は毎朝、仏壇の前で手を合わせたし、畑に行く途中の産土神社では必ず立ち止まって合掌した。
私は今でも田舎に帰ると、祖母と同じことをする。


・最も大切なものの多くは、合理的とは言えないこと。
古来、人類は年寄りと若者との対立によりバランスを取ってきたと思う。
容赦なく活を入れてよいのである。
若者に迎合する年寄りは、若者に対する崇高な義務を果たさない人間、と私には思える。


・私の父は、「弱者を守るときだけは、暴力も許される」と口癖のように言っていた。
身を挺して弱者を救うことは、力によろうと何によろうと、
「義を見てせざるは勇なきなり」にある通り、気高い行為と教えられた。


・英国のケンブリッジ大学で、研究と教育に従事していたことがある。
カレッジでの晩餐では、教官達は必ず黒ガウンをまとい、
列を作って学生達の起立して待つダイニングホールに入場した。
太鼓の音を合図に、長老によるラテン語の祈りがあり、その後で食事が始まる。
灯かりはろうそくしかない。
この仰々しい手続きと暗いテーブルでの食事を、500年もやってきており、
これを変えようとなどと言い出すものは誰一人いない。


・国語は、言語教育という要素にとどまらず、すべての思考および情緒の基盤となる。


・あるとき我が家を訪れた米国人は、庭の虫の音を耳にして、
「あのノイズ(雑音)は何か」と問うた。
私の祖母は、虫の音を聞きながら、「もう秋なんだねー」と言ってよく涙を浮かべたものだった。
「もののあわれ」をかぎとる点でも、日本人の感覚は研ぎ澄まされている。
これら情緒は、親から子へ、また和歌や俳句をはじめとする文学などを通して、
日本人の胸に継がれてきたものである。
国際化につれ、このような日本人の情緒は必ず光彩を放つものである。
世界に向かい、日本人が真に誇れる特質といってよい。


・小学校では何をおいても国語を叩き込み、それを基に母国の文化、伝統、情緒などを培い、
その国の人間としての根っこを形成すべきである。
この意味で小学校の国語は、一国の生命線といって過言ではない。
わが国は古い伝統国家として、英語への思慮ある距離感覚を持つことが肝要ではなかろうか。


※コメント
藤原氏の文章は、さっぱりしているが本質をついていて面白い。
引き寄せられる。
なにか我々のなかでモヤモヤしていたものが、鮮明に見てくる。


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