◆火坂雅志『軍師の門、竹中半兵衛と黒田官兵衛:上巻』を読み解く


※要旨


・竹中半兵衛は、その生涯のうちに、わずか2度しか人を斬ったことがない。
無益な殺戮を嫌い、力よりも知恵によるいくさを心がけた半兵衛だったが、
必要あらば、躊躇なく人を斬る。
この一見、物静かな若者の身のうちにも、
乱世を生きる苛烈な漢の血が脈々と流れている。


・黒田官兵衛は、職隆の嫡男として姫路城で生まれた。
母は、明石正風という歌詠みの孫である。
京育ちの母の影響を受け、官兵衛は武家の子にもかかわらず、
幼少の頃から古今集などの和歌に親しみ、源氏物語、伊勢物語を読みふけって育った。


・客将として招かれ、小谷城へ来てから、わずか一ヶ月にして、
半兵衛は浅井長政の人物を見切っていた。
乱世から抜きん出ていくには、熱意だけでは如何ともしがたい。
したたかな知恵と、大胆な変革を恐れぬ心、
そして時代の気運をつかんだ者だけが、まっしぐらに覇道をかけのぼってゆく。


・行動は果断にして、迅速なるがよし。
頭であれこそ考えて決断をためらっている者より、機を逃さず、動いた者の勝ちだ。


・古来、
「美濃を制する者は天下を制する」
といわれる。
肥沃な国土と地勢にめぐまれ、不破ノ関をこえれば、
そこは琵琶湖のひろがる近江の国。
京の都は目と鼻の先である。


・織田家のなかでめざましい出世を遂げてきた羽柴秀吉には、3つの信条があった。
「大飯」
「早食らい」
「憂いこと無用」
である。


・農民の出で、若い頃から苦労を重ねてきた秀吉は、
「人は飯によって動くものだ」
ということを、経験によって知るようになった。


・羽柴秀長は、出世いちじるしい兄の裏方として、
つねに矢銭(軍資金)の調達に走り回っているため、織田家中のなかには、
「あやつは、いつも銭勘定ばかりしている算盤侍じゃ」
と陰口をたたく者もある。
しかし、この男の地味で着実な仕事がなければ、秀吉の派手な活動が成り立たぬことを、
半兵衛は見抜いていた。


・半兵衛の目は澄んでいた。
人の命など、遅かれ早かれ、必ず尽きる。
その生をいかに華やかに、晴れやかに飾って散るか、
「人生とは、たかがそれだけのものではないか」
と、半兵衛は腹をくくっている。


・いくさには、戦略も戦術も必要である。
そのために軍師は知恵をしぼる。
しかし、いざとなれば、最後にものをいうのは、
「度胸」
しかない。
半兵衛は緻密な策謀家であるが、反面、
いかなる剛勇の士よりも腹のすわった一流の勝負師でもあった。


・半兵衛が考える軍師の条件とは、たんに軍学の知識を持ち、それを応用するというだけではない。
もっと大局的に、総合的に、領国全体の経営を考え、
それによって国力を増強し、民の暮らしの安定をはかる、
「民政家」
の手腕にたけていることが重要であった。
かの諸葛孔明もそうであった。


・卓越した民政家であったからこそ、孔明は他の戦術家たちと一線を画し、
その名を歴史に刻んだといえる。


・官兵衛には、源氏物語や伊勢物語を読んで育った心根の優しさ、
あるいは、父祖から受け継いだ商人的な合理精神のなせるわざを備えていた。


・尼子氏は、出雲の大名である。
乱世の風雲に乗じて着々と実力をたくわえ、尼子経久の代に、
京極氏を逐って出雲一国を掌握。
下克上によって、戦国大名にのし上った。
以来、経久は積極的に周辺諸国へ兵を送って、領土を拡大。
山陰、山陽あわせて11カ国に号令を発する大大名にまで急成長した。


・尼子氏の発展をささえたのは、
「出雲の鉄」
「石見銀山の銀」
そして、対朝鮮半島貿易によってもたらされた莫大な利益である。
しかし名将とうたわれた経久が没し、その孫晴久が家督を相続すると、
見るかげもなく衰退していく。


・緊急事態に浮き足立つ官兵衛を竹中半兵衛が叱咤した。
「このような危機にこそ、人の真価が問われる。
どっしりと腹をすえ、冷静に状況を見定めることだ」


・竹中半兵衛が世を去ったのは、6月13日のことである。
享年36。
秀吉の軍師として、官兵衛とともに、
「張良、陳平」
とたたえられた名軍師の早すぎる死であった。


※コメント
どんな大きなプロジェクトを進めるには、
度量のあるトップと軍師が欠かせない。
これは技術の進歩が早まろうが、かわらない真理だ。


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