◆武田知弘『「桶狭間」は経済戦争だった:戦国史の謎は経済で解ける』を読み解く


※要旨


・なぜ織田信長は今川義元が油断している時に、桶狭間で攻撃することができたのか?
その謎を解くカギが、実は「経済」なのである。


・信長の経済力を支えたある「港」の存在。
「津島」という港は、尾張と伊勢を結ぶ地点にあり、
西日本と東日本のちょうど中間に位置していた。
木曽川の支流大川と天王川の合流点でもあり、尾張、美濃地方の玄関口でもあった。


・信長の父、信秀の代の織田家は、版図自体はそれほど大きくないが、
経済力はかなりのものを持っていた。信秀を支えていた津島は、当然、信長に受け継がれた。
信長が強力な常備軍を持てたのは、この津島の収益のお陰でだったといえる。


・そもそも「桶狭間の戦い」とは、通説では、
今川義元が天下に号令をかけるために上洛しようとし、
尾張に侵入してきたところを信長が迎え撃った、ということになっている。
しかし、近年の研究では、これは否定されつつある。
今川義元はこの出撃に際してそれほどの準備はしておらず、
上洛する意図があったとは考えられない、ということだ。


・ではなぜ今川義元は尾張に侵攻してきたのか?
広い意味では、戦国大名同士の領土争いの一環であったといえる。
そして、狭い意味でいうなら、経済要衝の地「知多半島」を奪い合った戦いということである。


・実は信長は日本の経済史、金融史に残るような改革を多く実行している。
信長が天下統一目前まで行ったのは、経済政策によるものだといっても過言ではない。


・信長というのは、意外かもしれないが、
庶民に対しては非常に善政を行ったといえるのだ。
その最もたるものが税制である。
信長は税のシステムを簡略にして、中間搾取を極力減らし、
農民の負担を大幅に軽減したのである。


・戦国武将たちの生殺を握る商都「堺」。
堺を制する者は天下を制す。


・信長は、将軍の足利義昭から副将軍か畿内の管領に就くよう要請された。
しかし信長はこれを断り、堺、大津、草津に代官を置く許可を願い出た。
これは、信長が経済観念に優れていたとして、よく語られるエピソードだ。
それらの地は、当時、日本有数の港である。


・流通拠点を押さえることは、経済だけではなく軍事も押さえることになる。
信長が堺、大津、草津に目をつけたのは、そこに大きな理由があった。
しかし、戦国大名のだれもがこのことに気付いていたわけではない。
むしろ、多くの大名は港よりもとにかく領地を欲したのである。
そんな中で、信長はことさら港を欲した。
そこに信長の偉大さがあったともいえる。
極端にいえば、信長は堺を押さえることで、東日本の大名たちを干上がらせたのだ。


・信長が堺を欲したのは、収入だけが目的ではなかった。
堺には、日本最先端の武器製造工場が集まっていたのである。


・堺を押さえた信長は、当然のことながら堺の軍需産業を独占しようとした。
軍需産業を押さえるにあたって、信長はある商人を利用した。
今井宗久である。


・今井宗久は軍需物資に限らず、信長の経済面での片腕となっていった。
堺五箇荘の代官に任命され、塩や干物などの年貢の徴収権も管轄した。
生野銀山の運営を任されていたり、淀川の通行権も与えられており、
宗久は信長の政商として、信長の天下統一事業を財政から支えた。


※コメント
もともと信長の経済センスが優れていたのは有名だ。
しかし、このように信長の経済面に特化した本は珍しい。
新しい発想を与えてくれる一冊だ。


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