◆春日井邦夫『情報と謀略:下巻』を読み解く



※要旨


・すでに日露戦争における明石工作で、情報戦の重要さを実感したはずの政府も軍も、
その大勝に安んじてか、その組織的発展について、ほとんど意を用いなかった。
秘密戦について陸軍首脳部が認識を新たにするのは、第一次世界大戦、
特にその結果生じたロシア革命に対するシベリア出兵以後のことである。


・第一次大戦は史上初の国家総力戦であったが、
情報と謀略が真に国家の命運を分けることを実証した戦いでもあった。
とりわけ、諜報、防諜、謀略、暗号、宣伝など、
秘密戦への知恵と準備が勝敗を決定する大きな要素であることが明らかになった。


・日本陸軍の「特務機関」は、シベリア出兵を契機に創設され、
大陸での情報収集の拠点となったのである。



・1938年7月には、かつて満州事変に奉天特務機関長として活躍し、
「満州のロレンス」といわれた土肥原賢二中将が、
諸謀略の中央直轄機関長として派遣されることとなった。


・土肥原中将は上海に「土肥原機関」を設立し、
当時の金で1000万円以上という厖大な機密費を与えられて謀略工作に専念したのであった。


・東京裁判での土肥原被告の沈黙。
土肥原賢二大将は戦後「東京裁判」で、その多くの対中謀略工作に従事した経歴を問われ、
絞首刑となった。
その略歴は次の通りであった。


1928年、中国政府の招聘で、奉天督軍顧問。

1931年、関東軍司令部付で奉天特務機関長となり、溥儀脱出工作を担当。

1937年、第14師団長。

1938年、参謀本部付で3度目の土肥原機関を指揮。

1939年、第5軍司令官。

1940年、軍事参議官。

1941年、陸軍大将、航空総監。

1943年、東部軍司令官。

1944年、第七方面軍司令官(シンガポール)。

1945年、教育総監、第十二方面軍司令官兼第一総軍司令官(東京)を歴任。



・東京裁判で土肥原被告は、ついに個人反証の証人台に立たず、沈黙を守った。
国府検事団は膨大な証拠を用意して追及を準備したが肩透かしとなり、
3日間の審理は波乱もなく終了。
判決は、共同謀議、中国・アメリカ・イギリス・オランダに対する侵略戦争の実行、
張鼓峰事件・ノモンハン事件における侵略戦争の実行、残虐行為の命令授権、
許可について有罪とされ、絞首刑が宣告執行された。


・土肥原被告は「宣告の終わった瞬間、一切の不安がなくなり、急に朗らかになった」
と述懐したが、情報将校として何事も語らずに、黙々と死に就いたのである。


・もともと戦争指導の基本方針がぐらついているなかで、
謀略工作など上手くいくはずもなかった。
何のために戦うのか、よくわからないままに戦火拡大し、
終結の見通しがなく、やむなく「謀略」で和平を探るという事態こそ、
最も戒められるべきところである。


・仲小路独特の情報収集法。
「日本的世界原理」の理論的提唱者が仲小路彰であった。
その情報収集法の第一は、マスメディアの丹念な収集と分析にあった。
当時最大のメディアだった新聞について仲小路は、「現代史の基礎資料」として重視し、
複数紙を併読して情報の偏りを防いでいた。
加えて同盟通信社による海外情報が、知人からもたらされていた。


・第二は、定期刊行物、出版物の幅広い多読と速読による分類と集積があった。
これは仲小路の独壇場であった。
その伝説化された速読の様子を小島は語っている。
あるとき議論をしながら仲小路が膝の上に一冊の本を開き、パラパラとページをめくり、
一時間ほどで読み終え、別れ際に貸してくれたことがあったという。


・第三にラジオ放送があった。
音声伝達の新しい媒体として重視され、
特に音楽に天才を持つ仲小路にとって重要な媒体であった。


第四に映像である。
仲小路は20世紀最大の芸術としての映画の意義を最もよく理解し、愛した一人であった。


※コメント
いつの時代での情報の本質はかわらない。
逆に昔の歴史から情報とはなんぞやと、気づかされることが多い。
ビジネスでも外交でも、その本質を忘れないようにしていきたい。



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