◆井上和彦『日本が戦ってくれて感謝しています』を読み解く


※要旨


・対米戦反対を唱えながらも、マニラを10日余りで陥落させ、
占領地マニラで善政を敷いた知将・本間雅晴将軍は、
その処刑前にこういい遺した。

「私はバターン半島事件で殺される。
私が知りたいのは広島や長崎の数万もの無辜の市民の死は、
いったい誰の責任なのかということだ。
それはマッカーサーなのか、トルーマンなのか」

昭和21年4月3日、本間雅晴陸軍中将「戦死」。
享年58歳であった。


・米軍反攻直前の昭和19年10月になって、
第14軍司令官としてフィリピンへ赴任してきたのは陸軍大将山下奉文である。
持久戦を戦っていたが、終戦後、山下将軍は山を降り、
敢えて「生きて虜囚の辱め」を享けたのである。
彼は側近にこう語っていた。

「私はルソンで敵味方や民衆を問わず多くの人々を殺している。
この罪の償いをしなくてはならんだろう。
祖国へ帰ることなど夢にも思ってはいないが、
私がひとり先にいっては、
責任をとるものがなくて残ったものに迷惑をかける。
だから私は生きて責任を背負うつもりである。
そして一人でも多くの部下を無事に日本へ帰したい。
そして祖国再建のために大いに働いてもらいたい」


・山下将軍は10万の部下を無事復員させることに全力を傾けたのだった。
この山下将軍を正義の名の下に裁き、処刑したのは誰であろう、
部下を置き去りに敵前逃亡し、
そして敗戦の責任を部下に押し付けた、
かのダグラス・マッカーサー将軍だったのである。


・マニラ軍事裁判で、山下将軍の弁護人であった、
米国人フランク・リールはその著書『山下裁判』で次のように書いている。

「祖国を愛するいかなるアメリカ人も消しがたく苦痛に満ちた恥ずかしさなしには、
この裁判記録を読むことはできない。
われわれは不正であり、偽善的であり、復讐的であった」


・パラオのペリリュー神社にはこの地を訪れる日本人を無条件に驚かせ、
そして「世界の常識」を思い知らさせる石碑がある。


「諸国から訪れる旅人たちよ、
この島を守るために日本軍人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い、
そして玉砕したかを伝えられよ」


敵将・米国太平洋艦隊司令長官C・W・ミニッツ提督から贈られた賛辞であった。
国を守るために尊い生命を捧げた軍人に感謝することは当然である。
しかし戦後の日本人はそんな常識をいつしか忘れ去り、
先人の尊い犠牲の上に築かれた「平和」を当然のことのように享受してはいまいか。


・わたしは台湾を訪れると龍山寺を訪れる。
古き良き時代の「日本」に会うために。
そこにいる台湾のお年寄りたちは、こう言ってくれる。

「昔僕らはね、祖国日本のために全力を尽くして戦ったんですよ。
ああ、懐かしいな〜。
知っていますか?
『敷島の大和心を人問わば、朝日に匂う山桜花』
今の人は知らんだろうな〜」

「なんで日本は、あんな中国、韓国にペコペコしすぎるんだ!
もっと堂々としなさい。
大和民族が何をやっとるのか!」


・「老台北」の蔡さんはいう。
「私がもっとも尊敬する実業家、それは許文龍さん。
この人は私利私欲がない。
尊敬する後藤新平の生き方そのものなんです。
いわば台湾の宝です」


・藤原岩市少佐は、参謀本部の命令によって、
「F機関」を発足させ、英軍の7割を占めるインド人将兵に投降を呼びかけ、
また捕虜となったインド兵をインド独立のために立ち上がらせる工作活動を任された。


・F機関の構成メンバーは民間人を含めてわずか10余名。
陸軍中野学校出身の中でもずば抜けて優秀な若手将校から、
マレー語に堪能な60歳近い実業家まで、
年齢も経歴もバラバラな猛者の集まりだった。
そんな男たちを藤原少佐は見事に纏め上げたのである。


・戦史はただ過去の戦争の歴史ではない。
戦史は、現在を知り、そして将来を占う確かな道しるべなのである。



※コメント
改めて、歴史の評価は両面があることを知った。
その両方をきちんと調べて、研究することが大事だ。




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