◆小板橋太郎『異端児たちの決断:日立製作所・川村改革の2000日』を読み解く




※要旨


・1999年、日立製作所の副社長川村隆は、
北海道への出張のため全日空新千歳行き61便の飛行機に乗り込んだ。
その飛行機は、旅客機マニアの犯人にハイジャックされた。
犯人は、機長を殺害し、副機長を外に出し、操縦した。
たまたま乗り合わせた非番のベテランパイロットの山内が、
マニュアルを無視し、ドアを破ってコックピットに入り、
あと20秒で墜落というところで、機体の失速を回避した。


・この事件からちょうど10年後の2009年、
日立製作所は製造業史上最大となる7873億円の最終赤字を計上した。
売上高10兆円、日本最大のコングリマリットは、
33万人の従業員を乗せながら、全日空61便のように急降下した。
そして同年4月、旧経営陣の多くは退陣し、
6年前に副社長を最後に子会社に転出していた川村を会長兼社長に起用する。


・歴史の奇妙な偶然を感じさせるのは、
61便を救出した山内がその日、
便の運行には携わらない「非番のパイロット」だったことだ。
乗客が証言しているように、ハイジャックの事実を間近に見ながら、
マニュアル通りの対応しかできなかった客室乗務員ら。
その静止を押しのけて、山内や数名の乗客が協力してコックピットに入り、
機体を再上昇させたことは、
10年後に日立に起きたことと酷似している。


・川村はもともと、何かを決めるときに人に相談をするタイプではない。
川村を長く知る社内の人々は、
「即断即決で味気ないぐらいドライ」
という印象を持っている。
そもそも会議や合議というものをあまり好まない。


・「時計の針を巻き戻したような布陣」
62歳の古川から69歳の川村への社長交代は、
メディアの格好の餌食になった。
だが、川村は意に介さなかった。


・「23人の専務と常務は意思決定の会議から外そう。
今はスピードが最重要だ。
重要な意思決定はこの6人で決める」
4月1日の新体制発足直後の経営会議で、
川村は集まった5人の副社長にこう宣言した。


・川村隆という人物を一言で表現するのは難しい。
日立のエリートコースを歩んできたが、
若い頃からガツガツしたところをあまり見せなかった。


・それは、荘子のつぎの言葉が川村に当てはまる。
「君子の交わりは淡きこと水の如し、
小人の交わりは甘きこと禮の如し」

つまり、
「物事をよくわきまえた人の交際は水のようだ。
つまらぬ小人物の交際は、まるで甘酒のように甘く、
ベタベタした関係であり、一時的には濃密のように見えても、
長続きせず、破綻を招きやすいものだ」



・日立本体の顧客は、受注金額順に業種を並べると、
電力、ガス、通信、金融となる。
古くからインフラ企業を顧客にしてきた日立らしい顧客構成だ。

だが、これを日立グループに切り替えるとまったく異なる風景が見えてきた。
それは、電機、自動車、流通となる。


・川村は、出血している事業のリストラ。
近づける事業と遠ざける事業の峻別を行った。
そして今後成長が見込まれる情報システム系の上場子会社をTOBで取り込み、
社外に流出している利益を取り込んだ。


・「日立に追い風が吹いている」
2010年4月、新社長に就任した中西宏明は、
はじめての記者会見で開口一番、こう宣言した。
過去1年、守り6割と言ってきた緊急事態フェーズから、
一気攻めに転じる旗印を鮮明にしたのだ。
キーワードは「グローバル」。
「日立を世界有数の社会イノベーション企業にする」
と中西は強調した。


・中西は1970年に東京大学工学部を卒業、日立に入社した。
「入社した頃から社長候補」と言われ、
30代の初めにはスタンフォード大学院に留学。
大みか工場副工場長、日立ヨーロッパ社長、
北米総代表、欧州総代表も務めるなど、約束されたエリートコースを歩んできた。


・中西は物腰は穏やかだが、クールで頭が切れる。
そんな彼は5年前にはこの壇上に立つことは予想していなかった。
中西は、2006年に副社長に昇進するが、
日立GST再建に専念するため、同年末には副社長を退任。



・傍目からは中西の北米行きは、
社長レースに破れた都落ちと捉えられた。
だが、中西の経営の真骨頂はここから始まる。
そして、3年間にわたる日立GSTの再建は、
その後、川村とともに進めていく日立「改造」の重要な伏線となるのだ。


・川村にせよ、中西にせよ、他の日立再建チームを見るにつけ、
感じることがある。
一度一線を退いた、あるいは外れた人間が何かの偶然で
再度経営に携わることになった時、
そこにはある種の思い切りや大胆さが発揮されるように思えてならない。
言葉は悪いが、一度捨てた命、一度は死んだ身。
悲壮感ややぶれかぶれというのとも違う、
しがらみから解き放たれた「達観」が経営を動かしていく。
そうでなければ、その後の日立の復活は説明のつけようがない。


・北米サンノゼで、タフ・ネゴシエイターとして名を馳せた中西だが、
単身赴任のプライベート生活は気ままに過ごした。
中西は根っからの料理好きで知られる。
多忙な生活の傍らで、食材を買い込み、
毎晩一人でも3品ほどの料理を作るのが常だった。


・日立GSTの会長の三好が、ゴルフ帰りにワインを携えて中西の部屋に行くと、
エプロンをして自作料理を準備した中西が待っている。

「包丁の研ぎ方一つで料理の味は変わるんだよ」


・入社した頃から社長候補と言われ、
エリート街道を進み、自らもそれを認識しながら、
時の運には恵まれなかった。
それでも腐ることなく、海外での困難なミッションに力を尽くし、
プライベートの時間も疎かには過ごさない。
カルフォルニアでのエピソードは、
豪腕とかタフと呼ばれる中西のもう一つの横顔をよく表している。


・英国での鉄道ビジネスで苦戦を強いられた日立は、
セールスマネジャーの求人広告を出した。

そこに現れたのは、元英国海軍の軍人で、
国防企業BAEシステムズやアルストムでセールスを担当した、
アリステア・ドーマーだ。

「日本のHITACHIが、
なんのツテもないイギリスで鉄道車両を売ろうなんて、
チャレンジングで面白そうじゃないか」

「日立の技術が優れていることは知っているが、
英国でビジネスをするには私のコネクションが必要だ」

と言って現れた。


・ドーマーは、現地を理解するメンバーで体制をつくり、
その結果、公式・非公式の様々な場において、
複雑に入り組むステークホルダーから
情報を適切に吸い上げることが可能になった。


・ドーマーは、英国鉄道戦略庁の担当官だったアンディー・バールをスカウトした。
最初に煮え湯を飲まされた担当官庁から、
直接人材を引き抜くドーマーの人脈と手腕を見て、
日本人幹部は、「やはりボタンの押し方が違うな」
と感心せざるを得なかった。


・2014年6月、川村隆は株式総会において取締役を退任した。
何人かの取締役が簡単な退任の挨拶をするのと同じように、
川村も通りいっぺんの挨拶を残し、取締役会を後にした。
5年にわたる日立再建をなし遂げた主人公は、
最後に気の利いた言葉でも発して取締役会を去るのかと思いきや、
その去り際は拍子抜けするぐらい淡白なものだった。


・川村が日立工場の設計課長だった頃、
日立工場長の綿森力は、こう言ったという。

「この工場が沈むときがもし来たら、キミたちは先に船を下りろ。
それを全部見届けたら、俺はこの窓を蹴破って飛び降りる。
それがザ・ラストマンだ」


・「2009年4月、今にも沈もうとしている日立の舵を握ったのは、
綿森や全日空の山内の言動からザ・ラストマンの精神を
学んだからなのかもしれない」

川村は大略、こう話してくれた。



※コメント
日立の改革はどうやって行われたか。
その一旦が見えて面白い。
またその改革が、60代の重鎮たちが行ったところに興味がそそられる。


★小板橋太郎『異端児たちの決断:日立製作所・川村改革の2000日』
の詳細,amazon購入はこちら↓

http://amzn.to/1NHIJGx