◆津本陽『信長私記、下天は夢か』を読み解く


※要旨


・織田信長の祖父、信定は、
尾張随一の商品流通市場である津島をわが手中に収めようと果敢な行動を起こした。


・津島湊は、昭和初期の神戸、横浜に匹敵する大貿易港だった。
日本の東西物産交流の接点であったといえる。


・信定は津島を制圧した後、町衆の長老である大橋清兵衛の家に、わが娘を嫁がせた。
彼は津島の富力を財源として掌握することが、
家運興隆のために欠くべからざる条件であると考えていた。


・信長の父、信秀が全織田を代表する武将となったのは、
多数の兵士を養う軍資金を豊富に蓄えていたからであった。



・信長は幼少の頃から、乱暴者の仲間とともに、
実戦に役立つ武芸鍛錬を、一日も怠らなかった。
午前中は馬を責めた。
軍馬を走らせ鍛えるのは、合戦に備えて必要であった。
馬は常に疾駆させ、贅肉を落としていなければ、有事の際に役立たない。


・日夜油断なく身構えている信長は、
武芸鍛錬には渇いた者が水を求めるような、熱望をあらわした。
彼に取り立てられ、こののち生涯の盛衰を彼と共にする近習の若者たちも、
主人によって死に物狂いの稽古に馴らされ、尾張の国中でも、
比類ない強兵に仕立てあげられていった。


・戦いのまえに決する勝因の7割は、情報戦であった。
戦国大名は、信長、秀吉、あるいは毛利元就のいずれを見ても、忍者の頭領のようなものであった。
信長はまず戦おうとする相手の、家中の事情をくわしく調べ上げる。
彼は情報戦のおそるべき効果を知っていた。



・日本の戦国時代を生き抜いてきた武将たちは、大変辛口の連中ばかりであった。
組織のなかに組み込まれている人間と、一人で歩き回っていた人間とでは、これはぜんぜん辛さが違う。


・戦いにあたってもっとも重要なことは、決断力。
情報の収集力、先見性、これもなければならないが、ある程度のところで決断すること。

・行く手がきりに包まれている中、武将は家来と相談している暇はない。
だからそのトップが突っ込む。
運を天に任せてみなついていくのだ。
大博打である。
独特の感覚、情報収集能力、状況の分析力などいろいろあるが、それに加えてものすごい攻撃性が必要である。



・織田信長は13歳で元服する。
それまでは禅僧の沢彦という人物に陽明学を学んだ。
そして、信長は馬乗りをする、水泳ぎをする、鷹狩をする。
これはみな戦争の稽古である。
鷹狩りは、とくに地下人との情報交換をやるためである。



・信長は私生活は徹底して倹約する。
しかし情報作戦には惜しむことなく金を注ぎ込む。
彼は情報戦のおそるべき効果を知っていた。



・信長は、ただの戦国大名ではない。
日本人には珍しい感覚の持ち主であった。
そのすぐれた先見性、合理性、判断力、行動力、そして勇気、どえ一つとっても、
我々の学ぶところの多いことに驚かされるのである。


・豊臣秀吉は、陽性で人情家、人に優しく行動力がある。
他方、こびへつらうほどの主への尽くし方と、素早く人の心のうちをよむ能力、そして調略の巧みさをもつ。


・徳川家康は関が原の合戦後も、非常に倹約家であった。



・家康は、どのような事態にたちいたっても、動じない。
冷静、沈着、我慢の人である。
秀吉から、元の領地から関東へ転封を命じられても、じっくりと関東経営を立派にやってのけた。
譜代の家来を使い、一揆を起こさせないで穏やかに経営する。
非常に巧みな切り抜け方をしている。


※コメント
日本の高速道路を車で移動すると、あらためて日本の広さに驚く。
同時に、戦国時代の人々はこれらを馬と歩きで移動していたと思うと畏敬の念を抱かざるおえない。
この地を隅々まで領国経営し、情報伝達していたとなると並々ならない努力が必要であったであろう。
しかし、昔も今も、移動手段や情報ツールは変わっても、それぞれの交通の要地は変わらない。
それらを制したものが政治やビジネスにおいて優位にたてるのだろう。
信長に学ぶ点は多い。


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