◆町田徹『東電国有化の罠』を読み解く


※要旨


・津波に強い女川原発。
本論に入る前に、最悪の原発事故を起こした福島第一原発と同様に、
東日本大震災に襲われながら、深刻な事故を招かなかったばかりか、
その後3ヶ月にわたって364人の被災者の避難所の役割まで果たした、
強固な原発があったことを紹介しておきたい。
宮城県の牡鹿半島にある東北電力の女川原子力発電所だ。


・ちなみに、筆者が最初に女川原発を取材したいと思ったきっかけは、
2011年3月中旬に、にわかには信じがたい情報が寄せられたことだった。
その情報は、電力各社にも太い人脈を持つ通信技術のプロから寄せられたもので、

「同じ原発でも、女川は、福島第一とまったく状況が違ったようだ。
非常用電源を失うことなく、安全が守られ、関連施設のボヤ程度で済んだらしい」

という内容だった。


・3月29日昼過ぎに、ようやく東北電力の女川原子力発電所に、
たどり着いた筆者の目に飛び込んできたのは、威容を誇る巨大な堤防の上を、
大型ダンプカーが忙しく行き交う突貫工事の風景だった。


・東北電力は、ただでさえ巨大な堤防をさらに3.2メートルかさ上げして、
17メートルの高さにする補強工事を急いでいたのだ。


・目の前の巨大堤防は、福島第一原発に襲い掛かったのと同じ高さ13メートルの津波が、
襲来したにもかかわらず、ビクともせずに、女川原発を守り抜いた堅牢な城壁である。


・東北電力特有の地元との付き合い。
救難活動に熱心だった背景には、東北電力特有の企業カルチャーがある。
社員の95%が地元・東北六県の出身者で、
地元との共存共栄が各社員の身に染み付いているというのだ。
日頃から、周辺の集落の飲み屋で、住民と社員が肩を並べて酒を飲むことも多いらしい。


・堤防の増強は、ほんの一例に過ぎない。
事前のリサーチや現地取材を通じて、東北電力が原発に猛烈な拘りを持っていることが、
随所で確認できた。


・その第一がそもそもの基本設計である。
女川原発の一号機は1984年6月に営業運転を開始した。
その16年前の1968年のこと。
東北電力は、学識者を交えた社内委員会「海岸施設研究委員会」を設置して、
明治三陸津波(1896)、昭和三陸津波(1933)の記録や、貞観津波(869)、
慶長津波(1611)の文献調査に着手した。
結果として当時、想定された津波の高さは3メートル程度だったが、
東北電力は女川原発の敷地の高さのほぼ5倍の14・8メートルに設定した。


・このことを主張した平井弥之助氏は、東京大学を出て、
当時の5大電力会社のひとつだった東邦電力に入社。
戦後の電力再編の立役者である松永安左エ門氏の肝いりで、
日本発送電、電源開発、東北電力(常務、副社長を歴任)、
電力中央研究所などを渡り歩いた人物だ。


・彼は東北地方の水力発電所の開発に多大な貢献をしたほか、
電力中央研究所の技術研究所長時代に東北電力の「海岸施設研究所委員会」のメンバーに名を連ねて、
女川原発の敷地を15メートルにするよう主張したという。


・平井氏は、海岸線から7キロ以上も離れた千貫神社(宮城県岩沼市)の近くに、
実家があった関係で、三陸地方の津波の恐ろしさを熟知していた。


・東北電力の安全への第二の拘りは、現状や想定のアップデートとその結果に応じて、
労を惜しまず対策を積み重ねてきたことだ。


・筆者は取材記者の習性として、ひとたび関心を持つと、
たとえ相手が札付きであっても直接取材をしないと納得できない。
取材対象の企業や現場を自分の目で見て確かめないと確信を持って原稿を書けないのだ。
新聞記者時代に「すっぽん」とからかわれた時期がある。


・その筆者が、女川原発の職員たちから安全の拘りを取材していて、
「なんてしつこい人たちだ」
と舌を巻かざるを得ないような話を延々と繰り返されたのだ。
これこそ、原子力を扱う電力会社に本来、求められる姿勢なのだろう。


※コメント
電力問題に関しては、膨大な情報とデータがある。
それを今後とも地道に分析していきたい。


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